1.1 強いブランドはハピネスを売っている
2008年5月17日静岡県御殿場の富士スピードウェイ。全長5キロに及ぶレーシングサーキットを大型バイクが埋め尽くした。大行進の最後尾のバイク軍団に先頭の一群が追いつき、サーキット全体がクロームに輝く大型バイクのリングと化した。バイクに跨るのは全国から集まったハーレーダビッドソンのオーナーとその家族たち。「チャプター」と呼ばれる各地域のオーナーグループごとに分かれて自慢のフラッグをなびかせ、満面の笑みを浮かべながらスタンドに手を振る。その数は、行進に参加したバイク千余台、スタンドで手を振るオーナーたちを含めると2万数千人に達し、参加者たちは皆、夜遅くまでハーレーダビッドソン ジャパン最大の年次イベント「富士ブルースカイヘブン」を楽しんだ。
よく知られているように、ハーレーダビッドソンは独特の存在感のある米国製大型バイク・ブランドだ。しかしながら、米国本社もその日本法人であるハーレーダビッドソン ジャパン(以下HDJと略す)も、世界の他の二輪車、四輪車ブランドと違って、卓越した商品を売るというよりも、その商品を媒介に「ハーレーと暮らす楽しみ」を売ることを一貫して重視してきていることは意外と知られていない。HDJの公式ホームページに行くと、「2009年モデル」、「純正パーツ&アクセサリー」というページに並んで「ハーレーの楽しみ」というページがあり、そこでは「乗る」、「愛でる」、「出会う」など「10の楽しみ」が高らかに謳われている。米国本社の同様のページも名称は「Experience (体験)」と異なるものの、多くのお祭りの情報で溢れていて、楽しみを売っているという点にブレはない。
2008年12月まで社長としてHDJを引っ張ってきた奥井俊史氏は常日頃社員とディーラーの人たちに、「自分たちの仕事は、商品をお客様に売ることではなく、買っていただいてから始まるお客様のハーレーとの生活をいかに楽しいものにして差し上げることにある」と語っている。それが、単なるリップサービスでないことは、冒頭で紹介した富士スピードウェイでのオーナーたちの笑顔が雄弁に物語っている。その結果だろうか、ビジネス上の成果も目覚しいものがあり、日本の二輪車市場がピークだった1983年から一気に4分の1に縮むなか、過去20年間にわたって増収、増益を続けている。
このハーレーダビッドソンに限らず、強いブランドの多くは、顧客に楽しみ=ハピネスを提供することをすべての行動の原点としている。顧客のハピネスの家元とも言うべきウォルト・ディズニーでは、テーマパークは「親と子が一緒に楽しめる場所」であり、「青空を背景とした巨大なステージ」であると位置づけられている。したがって、そこで働く従業員は「キャスト(=役者)」、顧客は「ゲスト=観客」、制服は「コスチューム(=衣装)」と呼ばれ、東京ディズニーリゾートのキャスト教育用の教材の中には「私達の役割:ハピネスを提供する」と明記されたものが存在している。
480年の伝統を誇る和菓子の虎屋は「おいしい和菓子を喜んで召し上がって頂く」を経営理念に、単に和菓子を商品として提供するだけでなく、それぞれの商品が生まれたときの歴史的背景と当時の文化をストーリーとして提供し、和菓子の世界を体感するハピネスを味わって欲しいと願っている。2008年2月末の同社のホームページの「季節の生菓子」を覗いてみると、例えば、高間餅というお菓子には、
「奈良県と大阪府にまたがる金剛山(こんごうさん)は古名を高間山(たかまやま)といい、隣に連なる葛城山(かつらぎさん)とともに万葉の昔から知られる歌枕です。『高間餅』の菓銘はこの山の名にちなんだようです。紅色の外良生地で白餡を包み、茶巾しぼりの形にしたもので、神々しい峰の春の景色を思わせます。
・・・、初出年:延享3年(1746)、・・・」
とあり、単なる和菓子を超えたほのかなうれしさが漂ってくる。
ハピネスの提供は、消費財ブランドにとどまらない。自動車部品の世界的ブランドであるデンソーは、「世界と未来をみつめ、新しい価値の創造を通じて、人々の幸福に貢献する」を企業理念に掲げ、「"やさしさ"と"うれしさ"を世界の人々へ (やさしさ = 環境・安全 うれしさ = 快適・利便)」を、2015年を目指す姿として謳っている。いかにもモノだけが勝負のように見える産業財の分野で、「幸福」とか「うれしさ」という言葉が普通に使われていて、著者が以前にお話をお聞きした同社の岡部前会長のお言葉と重ね合わせると、この企業の見識と誠実さが見えてくる。
このように、現代の強いブランドの多くは、先進の技術とか高品質、高性能な製品というのではなく、ずばり直接に、「顧客のハピネス」を謳い、それを自分たちが最も得意とするやり方で実現しようとしている。「多く」と言ったが、よくよく精査してゆくと、「ほとんどすべての強いブランド」と言い換えても間違いはない。
1.2 650年前の日本にあったブランドづくりの極意
顧客のうれしさ体験が、顧客の頭の中にその元になった企業や商品への熱い執着心をつくり出し、そのような人々がある厚みを持って存在するときに「強いブランド」が出来上がる。
ものだとすると、強いブランドが顧客のハピネスを志向するのはごく自然なことである。そのようなブランドにいつも突きつけられている問はつぎのいくつかのようなものである。
顧客のハピネスとは何か
それはどのようにして生まれるのか
それを提供するためにブランドは何をしなければいけないのか
ハピネス提供者側の心構えはどうあるべきか
永続的に顧客にハピネスが生まれ続けるための仕組みは何か
多くのブランドは、現場の試行錯誤を通して、これらの課題についてきわめてあいまいなかたちで知恵を育んできている。長い間、多くの人に愛されてきたブランドであればあるほど、その知恵はあいまいでありながらも「ほぼ正しい」ものであり、「使える」ものであることは容易に想像がつく。しかし、どんなに強い、どんなにIQの高いブランドであっても、これらの問のすべてに、明確に意識された、確信のある答を、誰もが分かるかたちで用意できるものはほとんどないと言っていいだろう。それは、その正解が、精神論でありながら行動論であり、人間の本質論であるからである。
筆者は長いこと、そのようなものは実践を通してのみ、その実践者たちの頭と体の中に宿るもので、それを誰でもが理解できるかたちで取り出して叙述するのは難しいと思ってきた。ところが、まさにそれにほぼぴったりの著述が650年前の日本にあったのだから、その驚きは筆舌に尽くしがたい。能楽者、世阿弥の「風姿花伝」、「花鏡」を中心とする著作である。その偉大さはつぎの3点に集約される。
- 上述のすべての問に明快な答を用意しただけでなく、各問への答が有機的に絡み合って一つの閉じた、揺るぎない体系になっている
- 「花」、「物まね」、「十体」、「相応」、「序・破・急」、「我見・離見」、「転読・真読」、・・・・等々(すべて第2章以下で紹介する)の、ハピネスを実現するための精神論と行動論が表裏一体となった興味深い概念が、これでもかと広く、深く紹介されている
- 「幽玄」、「妙」、「しほれたる」等々の高度に繊細で微妙な美のありようを絶妙な言語表現で紹介している
1.3 世阿弥、どこが凄いのか
『風姿花伝』にしても『花鏡』にしても、能の目利かずの筆者であっても、読み進んでいくにつれて、多くの花=驚きに出くわす。もう一度読み返してみるとまた最初に気づかなかった別の花に出くわす。近年出合った書物の中でこんなに楽しいものは記憶にない。立ち止まって、ブランドづくりの現場に立会いながらその営みを司る原理に少しでも近づこうとしている浅学の立場から、これらの著作のどこが凄いのかを考えてみると、行きつ戻りつしながらつぎの3点にたどり着いた。
- ハピネスの提供をすべての議論の出発点にしている
- 客の「目利き・目利かず」、為手の「上手・下手」以外の上下関係はないと言い切っている
- 永遠の存続を強く意識している
この3点を軸にして世阿弥の芸術論の輪郭をなぞってみよう。
■ ハピネスがすべての始まり:「能に花を知ること、・・・、無上第一なり」
このメッセージは、世阿弥のすべての議論の出発点である。能は何のためにあるのか、自分は何のために能の脚本を書き、能を演ずるのか。世阿弥の答は明々白々で、「花」すなわち観客のハピネスのためだ、それ以外にはないと言い切る。
問。能に花を知ること、この条々を見るに、無上第一なり。肝要なり。または不審なり。これ、いかにとして心得べきや。
答。この道の奥義を窮むるところなるべし。一大事とも秘事とも、ただこの一道なり。・・・
(訳あり)
これは「風姿花伝第三 問答条々」という、(おそらく)弟子がFAQ的に質問し、世阿弥がそれに答える、という下りにある一節で、能では、花が何たるかを知ることが何にもまして重要であると、強く主張している。花が能という芸の基本価値、基本理念だと言うのだ。本章の冒頭で述べたように、多くのブランドは、世阿弥のいう花を知り、思うがままにそれを咲かせたいと願っている。しかしながら、それを正面切って論じたり、ましてやそれを後進のために文書に残したりできた経営者はいない。
世阿弥はこの下りのすぐ後のところで、「家を守り、芸を重んずるために、亡き父観阿弥の教えを深く心に刻み、その大要を記したもので、他人の目に触れて参考になることを意図したものでは決してなく、純粋に子孫のための家訓にすぎない」と記している。『風姿花伝』は、世阿弥が十代から書き残した観阿弥の教えをもとに自身の体験も含めてまとめたもので、観阿弥芸術論by世阿弥であるのに対して、世阿弥62歳のときにまとめたとされる『花鏡』は、より深くこの芸道の粋に立ち入った叙述が多く、世阿弥自身の円熟した芸位に基づく自身の芸術論の色彩が濃い。いずれにしても世阿弥の著作は「花」に始まり「花」に終わるもので、舞台を論じたものだから当然とする考え方もあるが、650年前、14世紀という西欧でルネッサンスが始まる少し前に、これだけ完成されたハピネス創出論が出来上がっていたことに驚きを禁じえない。
世阿弥は、花を知ることが基本だとした上で、花とは何かを問う。それは単なる美しさではなく、驚き、新しさ、珍しさだという。これは、「偶有性(定番+驚き)」が脳にドーパミンを湧出させ、それにより人間がうれしいと感じる、という今日の脳科学の知見にぴったり一致する(茂木健一郎2007)。650年前に世阿弥は脳科学の理論を直観的に見抜いていたのだろうか。
彼はさらに、どうしたら新しさ、珍しさを生み出すことができるのかを問い、物まね、十体、工夫といった概念を駆使してイノベーション論に入っていく。このあたりの詳細は*章に譲るが、うれしさを前面に押し出し、それを実現するための方法論を展開する。その議論の深さと完成度の高さは感動的ですらある。
■ 「目利き・目利かず」、「上手・下手」以外の上下はない:「そもそも芸能とは、諸人の心を和らげて、上下の感をなさん(貴賎一同に感銘を与える)こと」
世阿弥のもう一つのショッキングなメッセージは、いくら文化が花咲いたとはいえ、社会的上下関係が厳然とあった時代に、「舞台の前では貴賎なし」と言い切ったことである。これも花に譬えて、一房の花を見て綺麗だと思うのは誰でも同じで、その人の社会的地位や性別には関係のないことだ、と言うのだ。
「たとへば上臈・下臈、男女、僧俗、田夫野人、・・・にいたるまで、花の枝を一房づつかざしたらんを、おしなべて見んがごとし。その、人の品々は変はるとも、美しの花やと見んことは、皆同じ花なるべし。」
(『花鏡』 幽玄之堺ニ入ル事)
客の間に貴賎なしという主張は重要で魅力的あるが、彼はさらに進んで、客には一つだけ上下関係がある、それは「目利き」と「目利かず」の違いだ、と主張する。能の鑑賞眼の有無という違いである。能の為手の側にも一つだけ、演能の力によって「上手」と「下手」の上下が存在する。観る側も演じる側も、能の閉じた世界の中だけで能力が問われるという意味で、極めてデモクラティックな文化を前提としていたと言うことができる。
この「目利き・目利かず」と「上手・下手」の二つの軸から四つの組み合わせが生じる。この点についての世阿弥の見解も面白い。
上手は目利かずの心に相叶うことかたし。下手は目利きの眼に合ふことなし。下手にて目利きの眼に叶はぬは、不審あるべからず。上手の目利かずの心に合わぬこと、これは、目利かずの眼のおよばぬところなれども、得たる上手にて、工夫あらん為手ならば、また目利かずの眼にも面白しと見るように能をすべし。この工夫と達者とを窮めたらん為手をば、花を窮めたるとや申すべき。
(『風姿花伝』 第五奥儀云)
ここでとりわけ興味深いのは後半部分である。上手の芸を目利きが味わって、よい舞台になるというのは当然のことであるが、本当の上手は、心の工夫と技の練磨によって目利かずの眼にも面白いと映るようにできなければダメだ、と言っているのだ。初めから目利きの客はいない。客を選ぶことなく目利かずをも虜にすることによって次代の目利きを育て、長期的繁栄の連鎖をつくることができるようになるのだ。これは、ハーレーダビッドソンが二輪のベテランだけでなく、二輪未体験者、女性、子供たちにもイベントを楽しんでもらうよういろいろと手を凝らしていることとも符合している。
■ 永遠の存続を目指す:「命には終はりあり、能には果てあるべからず」:
この章の上でも少しふれたが、世阿弥は折に触れて家の存続を心配している。「能には果てあるべからず」とは非常に強い表現であり、今日の日本の会社はもちろん、100年以上続く世界の強いブランドでも、ここまではっきりと永遠の存続を目標として掲げている例はない。さらに学ぶべきは、「・・・を目指します」ということを言いっ放しにしないで、必ずそのための方法論をきちんと具体的に述べている点である。
永遠の存続のための方法論その一は、「初心忘るべからず」である。これについては第*章で詳しく述べるが、この言葉は、今日普通に使われる意味とは異なり、つぎのような二重の意味を持っている。一つは、未熟なとき(初心)の体験を反省し教訓として記憶しておきなさいという意味で、彼は『花鏡』の後ろのほうで「前々の非を知るを、後々の是となす」という先人の言葉を引用している。もう一つは、熟達したらそのことを忘れて自分が未熟な分野にチャレンジしなさい、という意味である。したがって、この言葉は、「《未熟》⇒《失敗》⇔《反省》⇒《熟達》⇒《未熟》⇒」という無限の進化のスパイラルを示唆しているのだ。
さらに、そのスパイラルは一人の個人の進化を生むところにとどまらないで、人から人に伝承し続けなければいけない、と主張する。
初心を忘るれば、初心、子孫に伝わるべからず。初心を忘れずして、初心を重代すべし。
(『花鏡』 奥段)
未熟なときの失敗の反省がなければ、その体験の教訓は自分の肥やしにならないだけでなく、子孫にも伝わらない。そのような教訓を逃さず蓄積して次世代につなげれば、大変な財産になるというのだ。
近年、米国のハーレーダビッドソン、ドイツのメルセデス・ベンツ、国内では、トヨタ、花王、資生堂などが続々と企業ミュージアムをつくる、または、改装する動きが急である。成功例ばかりで、失敗の教訓が展示されない傾向にあるのは気になるところだが、それを差し引いたとしてもこれは、それぞれの企業の「初心を重代する」試みと見れないこともない。
永遠の存続の方法論その二は、教育論である。師をどうやって育てるかがきちんと論じられていて、体系としての隙のなさが伺える。組織の永続のためには磐石の人づくりが必須である。そのためには人を育てる人を育てるしくみが求められる。それについて世阿弥は『花鏡』の中で「習道ヲ知ル事」という1章を当てて熱く論じている。
師となり、弟子となる事、おほかたを習うことは常のことなれども、師の許す位は、弟子の下地と心を見すましてならでは、許さぬ仔細あり。
下地の叶うべき器量、一つ。心にすき(数奇)ありて、この道に一行三昧になるべき心、一つ。またこの道を教ふべき師、一つなり。この三つそろはねば、その物(師と許さるる位)にはなるまじきなり。
ここでは、師匠となるべき資格が論じられていて、@下地=稽古と工夫に熱心である素質、A心=この道が好きで好きで堪らないこと、B師=いい師についていること、の3条件が整わないと師の位を授けてはいけない、としている。この指導者の条件は十分に具体的かつ説得的であるが、そもそも「指導者の条件」に言及すること自体、世阿弥の勘所のよさに強く感動を覚える。
以上、ざっと見てきたわけだが、世阿弥の体系は14世紀半ばに自分の座の存続を危ぶんで内部用に残した能楽の世界の秘儀、秘伝である。ところが、今日のブランドづくりという業(わざ)を、「ハピネスの提供を通して、自分の会社・商品への熱い執着心を持った顧客を増やし続けること」と定義すると、この体系はそのまま現代ブランド道の最高の教典になる。今日ブランドづくりの周辺のさまざまな概念は、マーケティング論だけでなく、行動科学、脳科学、文化人類学、イノベーション論等々からの貢献によっているが、一見ユニークに見えるそれらの知見もそのほとんどは、能楽の文脈ではあるが世阿弥にすでに指摘されてしまっているのだ。しかも、その高度に抽象的あるいは感性的な諸概念が世阿弥独特の行動論で補強された上に、それぞれがバラバラに論じられるのではなく、完成したジグソーパズルのようにしっかりと繋がれて一つの体系をなしている。以下では、この世阿弥の体系をブランド論の教典として読むとこうなる、というかたちで少し詳しく見てゆくことにする。
(この文章は2009年春刊行の『世阿弥に学ぶ100年ブランドの本質』より抜粋したものです。著作権は著者にあります。)
第1章 なぜ世阿弥なのか
第2章 「花(顧客のうれしさ)」が原点
第3章 「秘すれば花」〔舞台裏を見せてはいけない〕
第4章 「物数を尽くして、工夫せよ」〔イノベーションを起こせ〕
第5章 「上下の感をなさんこと」〔客の上下なく感動を与えろ〕
第6章 「時分をも恐るべし」〔時の因果に敬虔たれ〕
第7章 「初心忘るべからず」〔反省と挑戦を怠ってはいけない〕
第8章 世阿弥問答:100年ブランドになるために
